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ワニにカクテル。

生活をワニ3匹分くらい幸せにするコツを探すブログ。アンテナ張っているジャンルは、ミニマリスト、ケモナー、心理学。メンタルなど。

若冲展と「本物」

皆さんは「本物」は好きだろうか。

――といきなり言われても「は?」と思うかもしれない。 いざ聞かれると、大多数の人がどちらかというと好きだと答えると思う。

「本物」という言葉で思い浮かぶイメージは人それぞれだと思うが、 本物―贋作から、「正しい」という意味を連想するかもしれない。あるいはライブやコンサートで目の前にいる有名人に対して「本物の○○だ!」という風な、「生の、現実の」という意味を考える人もいるだろう。

 

僕は先日見に行った「若冲展」で両方の意味で、「本物」を味わった。

 

若冲展」は4月の終わりから5月の24日まで開催された、若冲と呼ばれる日本画家の美術展のことだ。若冲は動物や植物をその優れた観察眼で生き生きと描くのが特徴だ。今回の展覧会も、その絵を見にたくさんの人が訪れた。訪れた、というと語弊があるかもしれない。詰めかけた、くらいが正しい表現だ。

なぜかというと、それはもう多くの人が押し寄せたからである。連日入るのに1,2時間待ちは当たり前で、土日となると3時間待ちの日もあったくらいだ。 例にもれず僕も決して短くない時間並んで見ることとなった。人の間を縫いながら水墨画などを見ていき、ついにメインの「動植綵絵」が展示されている部屋に来た。

僕は部屋に入り、そして息をのんだ。小ホールくらいの大きさの円形部屋には一定間隔で動植綵絵が展示されている。見上げるほど大きな絵には、遠くから見てもわかるほど色鮮やかに、絵ごとに異なるモチーフが描かれている。そう、はっとするようほど、色に溢れていたのだ。

ajisaisoukei 紫陽花双鶏図

僕は豪華絢爛な飾られた動物たちの姿に感動し、並んでまで絵を見ることに決めた一時前の自分に感謝した。そう、写真や映像ではなく、実物――「本物」の作品を見ようと思った自分に。

 

昨今、印刷・映像技術の発達により、オリジナルの作品と比べても遜色ない複製品が作られるようになった。また、ネットの発達により、デジタル画像や映像として作品を鑑賞することも可能になった。そんな今だから、若冲展のこの異常ともいえる混雑具合に「人気だからとりあえず集まるミーハーな人たち」「そこまで並ぶ価値はない」と観覧者を批判する人も多かった。「別にネットで検索すれば画像なんていくらでもある」なんてものも。



正直、僕もこの絵を見る前までは、そんな言葉で批判する人たちの側だった。少なくとも、ディズニーのアトラクションの待ち時間と同レベルで並ぶ必要があるものかと疑っていた。でも、僕は実際に作品を目の前で見たことで、やっぱり実物を見ることにはかなわないと強く感じた。

なぜかというと、実物と複製品(とデジタル)にはまだ再現性の差があるからだ。 実物と同じ寸法の複製品ならまだしも、画集やポストカードでは印刷の質もそれなりだし、そもそも作品の大きさが違うから迫力もまったく異なる。「動植綵絵」は縦142.5 x 横79.6cmと、近くで見ると迫力がある作品だ。これを画集、ましてやPCのモニタで見たとしても実際の絵の持つエネルギーみたいなものを感じることは難しい。このあたりのことは感覚的な話になってしまうけれども、野球の試合とか、音楽のライブとかで考えてもらうとわかりやすいと思う。モニタからでも鑑賞はできるけども、迫力とか臨場感といったものはどうしてもその場でしか体感することはできない。



加えて、今回の動植綵絵は当時の最高級品の絵の具が使われていたということもあり、画面の色彩が非常に美しい。館内の照明に照らされ、角度を変えてみると都度違った色で輝くのだ。キラキラする。動植綵絵の中にはオウムや鶏など、白色が効果的に使われているものが何点かあるのだけも、この白色が宝石を散りばめたのかというくらい光を反射して煌びやかに浮かびあがっていた。こればかりは「本物」を見ないことには体験できないことだ。僕は圧倒的な色彩の魔力の虜になりながら、自分の眼で生の絵を鑑賞できていることに感謝した。

 

そんなこんなで、僕は言いたいのは「バーチャルによって疑似体験できる機会は増えたけど、大事なのは自分で足を運び、自分の耳で聞き、自分の眼で見たオリジナルの体験」が大切だということだ。ネットは便利だけど万能じゃない。若冲展の余韻に浸りながら、僕はそんなことを考えた。